こんにちは、しましまです。
子どもと私は内面的にも似ているところがあります。
世間では当たり前のことだと思うのですが、自分は親と見た目以外は本当に似ていないので、やっぱそうなんだーと改めて実感しているところです。
私自身は今でこそ実家と距離を置いていますが、子どもたちが小さい頃は、子どもたち自身が実家と関われるように私もかかわってきました。
私と親の間のことは子どもたちには関係ないうえ、子どもたちにはいろんな逃げ場を持ってほしいと思ったからです。
親は普通に世話好きのいい人ではあるので、実務的にはずいぶん助けてもくれました。
けれど、基本的に親の傍にいると自分の心が傷つけられるので、ストレスとなり病んだ時期もありました(苦笑)
ただ、甲斐あってか親と子どもたちとの仲は良好で、子どもたちは習い事ついでに実家に寄ってご飯を食べてきたり、ふと行ってのんびり鬼の居ぬ間を満喫したりしています。
内面的に似てるけど、私のようにならなくてよかったなあ
(まあ、険悪になってもすぐ逃げれるし)
そう思っていたのですが、先日ばあちゃんにキレたという話を聞きました。
それも強烈に。
でもその話を聞いて、私のモヤモヤが一つ消えたんです!
どういうことだったのか書いてみようと思います。
何があったのか
原因は、私の母(子どもにとってのばあちゃん)が子どもが以前に作っていた自作の料理の写真をたまたま見て
「何それ、気持ち悪!」
と言ったことでした。
それでぶっつん来たそうですが、そのあとにばあちゃんが
「手料理だとわかっていれば言わなかった」
「料理上手だね」
みたいなことを言われて余計にキレたのだそうです。
ちなみに、母の名誉のために言うと、母は孫の手料理をそんな風に言うような人ではありません。
むしろ孫に対してはどんなでも褒める人です。
何かわからなくて思わず感想だけが出たのでしょう。
この一連の話、よくあることじゃないか、って思われたかもしれません。
もしかしたら『そんなことでキレられてばあちゃんかわいそう』って思った方も多いかもしれません。
でも、少なくとも私は子どものキレた原因に納得しました。
それは私自身が昔から抱いていたモヤモヤに通じることだったからです。
何故下の子はキレたのか
ポイントは3つです。
- 他人相手なら言わないであろう攻撃的な言葉を使われた
- 気持ち悪いモノに見えたのはオマエのせい
- モノが分かった瞬間に評価が変わることへの強烈な違和感と疑い
1.他人相手なら言わないであろう攻撃的な言葉を使われた
皆さんは人のモノに対して『気持ち悪』って言いますか?
少なくとも私は言えないです。
普通なら自分の好みじゃなくても、『気持ち悪』とまでは言わないでしょう。
『気持ち悪』って、相当相手をディスってますから。
素直と言えばそうかもしれない。
天然の人もいますし、悪気ないといわれればそうなんだろうと思います。
ただ『気持ち悪』って、普通は言うのをためらう言葉です。
大人なら特に。
素直だったら、天然だったら、人を傷つけるかもしれない言葉を発していいのでしょうか?
私は、No!と思います。
ちなみに、母に関しては他人には絶対言わない人なので天然ではありません。
身内限定で無遠慮なだけなのです。
そのことについては何度も話しましたが、わかってもらえませんでした。
身内だろうが自分とは違う他人です。
「何かわからないなら、まず何か聞けばいいだけだ」
子どもはそうおばあちゃんに言ったそうです。
言葉の強さだけではなく、その無遠慮さにも怒ったわけです。
2.気持ち悪いモノに見えたのはオマエのせい
「手料理だったら気持ち悪いとは言わなかった」
って、なんとなくその言葉の裏に
「手料理に見えない写真を撮るオマエが悪い」
があるように聞こえませんか?(屁理屈ですかね?)
文字だとちょっと伝わりにくいかも。
言葉って、発するときの雰囲気で裏の意味を伝えてしまうときがあります。
HSPは特に雰囲気から言葉に込められてない感情を読み取ってしまいます。
例えば「手料理だったら気持ち悪いとは言わなかった」を普通のトーンで、フラットな感情が込められてそうな雰囲気だったら、責められているようには聞こえないと思います。
ですが、不満そうに言ったらどうでしょう?
この場合の不満って、自分に向けてるってことはまずなく相手に向かってますよね。
なので、責められているように感じるし、表面上の言葉はどうあれ(本心は不満なんだな)って感じてしまいます。
今回はやはり責められてるように感じたらしく、怒りが増幅したそうです。
3.モノが分かった瞬間に評価が変わることへの強烈な違和感と疑い
「手料理だったら気持ち悪いとは言わなかった」
これも変じゃないですか?
だって、何かが気持ち悪く見えたわけです。
その何かがたまたま不運にも手料理だったわけで。
だったら、子どもの言うように、感想を言う前に何かを聞けばいいだけです。
聞きもしないで気持ち悪いモノと決めつけたための発言だったわけです。
気持ち悪いモノと判断したのは、母自身です。
気持ち悪く見えたのは仕方ないと思うんです。
でも、手料理と分かった瞬間に「上手だね」って言われたそうです。
本心だとしても「気持ち悪い」って言われた後に褒められて、素直に喜べるはずがありません。
しかも、裏の感情を読み取ってしまっている後なわけですから…
モノ自体は何も変わっていないのに評価が変わるというのは、自分の信念ではなく環境や周りの声で評価が変わるってことなので、結局条件付きの評価なんですよね。
条件付きの評価が育児に良くないことは、よく言われていることかと思います。
条件ついてなかったらすごくないってこと?って、次からその人のいい言葉を受け取れなくなってしまいます。
アニメとかでよくある
ぼろぼろの服の人=貧乏人 だから見下したけど、実はぼろぼろの人→大地主でお金持ちで、分かった瞬間にヘコヘコする三流貴族
のような行動をする人の言うことって信用されないってのと同じです。
子どもは、この一言で火に油を注がれたようです。
何故私のモヤは晴れたのか
1.ずばり、キレてくれたから
私は新しいもの、見たことないものに興味津々な子どもでした。
ですが、母は昔から自分の知らないものにはまずネガティブで否定的でした。
なので、こういう感じで母から言われたことは多々あります。
でも、子どものようにキレることはできませんでした。
悲しいという気持ちが先に来て、絶望が広がるとともにへそを曲げしまっていました。
私だったらきっと、「上手だね」って言われたら、「ああ、適当に言ってるな(興味ないのね)」ってその後無言で立ち去ってたと思います。
ちなみに私のケースだと、何か言い返したところで謝ってもらえるどころか、こちらを責めてきてました。
今回のケースだと「写真の撮り方が悪い」「おいしそうに見えない」などの言葉しか返ってこなかったと思います。
だから、キレたという子どもの話を聞いたとき
ああ、キレてよかったんだな
という気付きと
私のできなかったことをしてくれた
私の言えなかったことを言ってくれた
という感謝の気持ちでいっぱいになったんです。
そして、私のモヤモヤがスーッと消えました。
ちなみに、母からは謝ってもらえたそうです。
孫の言い分を本当の意味で理解してくれてたらいいのですが。
2.子どもが同じ気持ちだった
今まで、そういう風に思うのは自分だけだと思っていました。
でも、同じように感じる人間が近くにいたことで『ひとりじゃない』と思えたんです。
人からの影響は受けやすくて共感(共鳴)しやすいのに、人は自分のことをわかってくれない。
本当につらかったですが、『共感』してもらえたことで自分が認められた気がしました。
おわりに
自分の古傷は自分で癒すしかないとずっと思っていました。
人に話をしたところで、自分の気持ちが変わらなければ癒されることはありません。
私は、自分にされなかったことを子どもにすることで子どもが嬉しそうにしているところを見ると、喜びの裏に過去のくやしさ・憤りを思い出してしまうような人間です。
(人間出来てません)
どうやったら過去の嫌のことをただあった事だと思えるようになるのか、毎日自問自答です。
ですが、他人きっかけで癒されることもあるんですね。
本当にうれしかったです。
私や子どもが繊細過ぎるのかもしれません。
気にしない人にとっては気にするほどのことでもなく、逆に私たちの方がめんどくさいと感じる人もいるかもしれません。
けれど、少なくとも私にとっては、言葉だけでなくその時の雰囲気で言葉の裏を察してしまうのが日常で、毎日結構しんどいです(苦笑)
あんまり気にしないようにする努力は怠らないようにがんばります…
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